32章 突きつけられた真実
芯から冷えるような寒さは、急速な覚醒を僕に促したみたいだ。
両眼を開くよりも先、五感がまず戻ったのは視覚よりも触覚。身震いに、自分の身体が冷えていると教えられた。
そして、空気が湿っているということをその後に肌で感じる。
暗く陰湿、そんな空間だ。でも、その暗さは僕が瞼を閉じているからに過ぎない。
「うっ。此処は……?」
暗闇が取り除かれると共に、広い部屋と今にも消えそうな魔法陣が僕の視界に現れた。ここは、部屋だ。
数度、瞬きをしていくうちに焦点が結ばれて魔法陣の中央には突きたてられた十字架も確認できた。
十字架は信仰の象徴として有名だけど磔を表すこともある。墓場を連想するのも、おかしな話じゃない。
ここって儀式の間なのかな。ルネスは、赤い瞳を持った魔物だ。人間の宗教を信仰しているとは考えにくい。
僕は起き上がってあたりを見渡した。身体を動かすことに支障はなかった。何処も縛られてはいなかったから。
部屋の隅に本棚があることに僕は気づいた。一冊の豪華な装丁を施された本だけが寝そべっている。
でも、その本の背表紙は少し変だ。三角形が彫られている。いや、三角形だけしかない。題名すら、省かれてあった。
魔道書だろうか? 教会の保管庫に所蔵されているそれと、図形のみの背表紙という点が類似している。
僕は手にとりパラパラとページをめくりつつ、違いを比較していた。持てる知識を総動員して。
まず、三角形というのは簡易版とはいえ歴とした結界だ。とても簡単に描けるだけに、起源も古い。
本に魔力が宿されているのなら、魔力を抑える機能が装丁に備わっている。
でも、魔力を最も抑圧するのは名を封じることだ。本の場合、表紙のどこにも題名を記さないことだと言える。
総合的に考えて、この本が魔道書であるのならばかなり高位の魔法が記載されていることが予想できるんだけど。
「……ああ、やっぱり」
風、炎、光、操獣、水、霊、闇。すべて古代魔法でどれも脅威的な威力を持つものばかり。
でも。これらの魔法は普通の人が唱えても魔力不足で発動することはない。
一般人が持っていても意味はないように本という媒体によって設定されているのだから。
ルネス=ディオルも扱えないはずだ。彼は文武両道の人物だという噂だけど、魔術師だという話は耳にしなかった。
文では歴史に明るく、武では徒手空拳で名を挙げているそうだ。
魔帝と呼ばれる男の正体がヴァンパイアであるのなら、そのどちらも然るべきものだ。
それに、もしもこのうちの一つでも使えるのなら、あの時に魔法で襲いかかってきたはずだ。
門を立てることで転移できる腕前であれば自分の魔法に自信を持っているのが当然だ。
あの転移魔法は、誰かの協力があったんだろう。だとすれば、これは彼自身が使うのではなく。
「あら、起きてたの。お早いお目覚めだこと」
突然聞こえた声に後ろを振り返るとそこには知らない女の子がいた。その背後に白い扉が覗けた。
口振りからして、たった今この部屋に入ってきたようだけど。
足音は聞こえなかった。そんなことをするなんて、いったい何事なのか。
「君は、誰なの?」
身構えながら僕は問う。僕の置かれた状況下からして彼女の出現は予想できたはずがない。
ルネスに捕らえられたんだ。僕はきっと今、幽閉された身。出口は塞がれているはずだ。
部屋に窓はない。唯一の脱出口は彼女が通ったであろう白い扉。
ルネスの配下だとして警戒して発せられた僕の言葉に彼女は冷笑を返してみせた。
「別に誰だって良いじゃない。言っておくけど私は人間よ。あなたと一緒にしないで」
彼女は何処からともなくナイフを取り出した。
僕は魔道書を傍にあった机の上に置いた。
彼女の暗い笑いが問答をする時間は最早ないことを告げる。
それでもなお、僕は問う。
「それは何の為に?」
彼女はナイフを指の腹に乗せ回転させながら笑みを浮かべてさらりと言う。でも目は笑わない。
「わからないの? 儀式には人ならざる生贄の血も必要だからこれから採取するのよ」
ナイフをくるくると器用に回しながら彼女は宣言する。ナイフの刃先は僕を狙っている。
でも、人ならざる者だって? 何を言っているんだろう、そんな奴は此処にはいないじゃないか。
「僕は人間だよ」
そう言うと彼女はまたクスクスと笑う。僕にはさっきからそれが嘲りにしか聞こえない。
「知らないの? 自分が何者なのか。何故あなたが魔物、そう。ヴァンパイアに狙われていたのか」
僕は、息を呑んでしまった。自分が抱いていた疑問を脈絡なく他人に提示されるのは、心臓を掴まれた心地だった。
この子は僕が知らないことを知っている? でも、どうして彼女が。
「それは貴方がヴァンパイアの皇子だから。いずれ頂点に君臨するものが魔者じゃ納得いかないはずよね」
「何を、馬鹿なことを」
確かに僕と姉さんはよくバンパイアに狙われてたりしたけど、でもそれは違う。
「そんなわけないよ、だって」
彼女はくるくると回していたナイフを握りしめ、笑わない瞳に僕をうつした。
「往生際が悪いわ。理由もなくバンパイアがこぞって特定の者を狙うと思う?」
彼女はそう言うとまたくるくるとナイフを回し始めた。視線はまたナイフに注がれた。
「僕の家系がバンパイアを脅かす力を持つからだよ。だからそれは違う」
「そうね、闇と光は反発しあうもの。反発しあうからこそより強い力となるのかもね」
何を言ってるんだ? 闇と光は決して交わることのない並行な関係。交わることはなく相殺しあう。
否定する。でも肯定を促す光景が脳裏を通り過ぎた。でも、それも否定する。
「そんなはずがないよ」
彼女はため息をつきながらナイフを回した。
僕は彼女の言葉に耳を傾けちゃいけない、そう思った。
「馬鹿なの? それとも認めたくないのかしら……あなたがその証拠。魔者なのよ」
そんなわけない。でもそれなら辻褄があう。
僕は否定しようと思っているのに、どこかで納得している。
何故ラーキさん以外の人は冷たいのかわからなかったし、理不尽だと思ってた。
でも、もし僕が魔者だとしたら? 皆僕が魔者だと知っていたのなら──すべて、頷けてしまう。
さまざまな光景が僕の脳裏の中に広がっていく。怯えている人の顔が鮮明に思い出された。
「ようやく認める気になった?」
「いや、違う」
皆が知っていたのならラーキさんが気づかないはずがない。知っていて普通に接することはできない。
魔者は魔物の血をひくもの。いつ襲われるかわからない脅威の種を放置するわけがない。
だから皆が僕に冷たいのは無知な子供で、逃げる途中たくさんの犠牲者をだしてしまったからで。
「そう、違うよ。僕は人間だ」
僕は彼女を睨んで言い張った。ラーキさんは教会の中でもっとも厳しい鬼のような人だ。
そんな人が魔者の存在を許せるはずがない。気づいていたならとうに僕は殺されてるはず。
それに僕は教団に属している。闇の者を聖なる場所に従属できるはずないじゃないか。
ちゃんと神の祝福を受けてる。光魔法が使えることがその証拠じゃない。
「愚かね、あなたも」
殺意と共に投げつけられたナイフを僕は避けた。ナイフは軌道が読めればかわすのは容易い。
訓練を受けたのが役にたったかな。ラーキさんのあれは命がけだった、かなり危険な。
『ヒュッ……カッ』
え……? 風切りの音を耳にした後で、僕の咥内で血の味が広がった。
どうして。ナイフはちゃんと、かわしたのに。振り向く暇もなくまた風が唸る。
今度は背中に深く突き刺さった。鈍い痛みがじわじわと押し寄せてくる。どういうことなんだ?
しかも、こんな時に頭痛が起きた。
ずきんずきんと頭も痛むのを片手でおさえたけどさほど意味はなかった。
でも今倒れてしまっては駄目だ。かと言ってもナイフを抜けるほどの集中力はない。
「ただのナイフとなめられちゃ困るわ。まあ、これくらいで死ぬわけないけど……魔者だもの」
ナイフを手放した少女は尚嘲笑う。すっと彼女の右手があがった。
それに呼応するかのようにナイフが僕の体から引き抜けられる。その動作で、軌道の謎は解けた。
だけど、もう遅い。呻き声と口の中で溢れ続ける血を押し込んで僕は耐えるしかなかった。
それでも口からは血が流れていく。
ナイフは目の前へ踊り出て僕の心臓へと狙いを定めた。もう、駄目だ。
意識ははっきりとしてるけど、どこか心地良い。
何かを……求めてる? 痛みを感じない。熱はある。痛覚が麻痺してしまったんだろうか?
だけど、何故かな。この不思議な感覚には覚えがあった。
月に心を奪われた時と同じ。危険だと体中の組織が蠢いている。
僕は突き刺さった短剣を抜こうとしたけど抜けない程深く突き刺さっていた。
だけど、動けそうだ。
僕が自分の諦めきっていないことを察知したのか首元を掴まれて眉間を殴られた。
これはかなりの痛手だった。頭痛と痛みが重なり意識は朦朧としている。すべてが幾重にもぶれて見える。
「気を失うわけには……いかない、んだ」
今気を失ってしまったら、おそらく僕は。
なんとなく。なんとなくは、感づいていたんだ。本当はわかってたのかもしれない。
でも信じたくなかった。失いたくない場所があった。
月を見ていたらいつの間にか僕は気を失ってしまう。そして僕はいつも決まって同じ夢を見る。
それは深い森の中をさまよい歩く夢。たまに生きている人を見かけた。そしていつもそこで終る。
そして横にはラーキさん。僕の目の前には夢にでてきた人が怯えた目で僕を見つめている。
その人が逃げて夢が途切れる前にお姉ちゃんが来るんだ。
「忌まわしいのよ…魔と人の間にできた存在が!生まれてくるべきじゃなかった!」
何かが僕の頭の中で切れ体がわなわなと震えた。それは僕が一番、聞きたくなかった言葉。
何も知らない人に言われたくない。存在していること自体が悪いというの?
「そんなこと、あってたまるか」
突き刺さっていた短剣を引きぬいた。痛いとも苦しいとも思わない。
今僕には力が満ち血が騒いでいる。この感覚は、何というの?
そこで僕の意識は刹那、途切れた。途切れる前に部屋のものがすべて壊れる音がしたけれど。
きっとそのとき、僕は叫んでいた。
「そんなことがあってたまるか!」
意識がまた戻った時に僕は無数の闇が生まれ僕以外のすべてを包みこむのを見た。
飾られていた鏡に映った僕の瞳は赤だった。でもそんなことを僕は気にしなかった。
自分が何をしているのか、悲しいのかそうじゃないのか。顔には笑顔が貼りついてたけどそれは。
僕は机に置いた魔道書を持ち部屋から出た。誰かに会いたいな、そして人が流す血の色をみたい。
狂いだした歯車。静かにそして確実に破滅への道を進み始める。
部屋に残されたのは先程の少女と突如現れた闇に粉砕された調度品だったはずのもの。
覚醒した魔者を止めるすべは果たしていくつあるだろう。
希望をなくし絶望しかないと悟ったものを救う手はあるのだろうか。
神は万人を祝福し愛しても所詮助けてはくれない。道を切り開くのは己だと、忠告や導きがあっても。
人の道を決めるのは神ではないのだから―――これすら神の優しさかもしれない。
だが神の理と人の理は違う。そんな優しさよりも救いをくれと願う。
「僕は人間だよ」
どこまでが人間でどこからが魔物なの?境界線はなくて気持ちの持ちようじゃない。
僕が自分のことを人間と思うのなら僕は人間なんだ……そう、人間だ。
NEXT 3幕前編終
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